TSUHAN SHIMBUN ONLINE

インターネット・ビジネス・フロンティア株式会社
記事カテゴリ一覧

【トクホ 終わりの始まり 7.「乱麻」の業界団体㊤】

2021年 6月 3日 12:30

業界側の受け皿で大同団結も

 歴史的に健康食品の業界と団体は複雑な構図で「乱麻」が続く。特定保健用食品制度(トクホ)の設立時には、統一の道筋も拓けたが、トクホが低空飛行を続け、各団体の思惑も一致しなかったことで、機運も萎んでいった。

                         ★

 機能性食品からトクホへの道筋で触れた通り、厚労省は1988年に「健康食品対策室」を「新開発食品保健対策室」に変更して、トクホの受け皿をつくる。

 業界側の受け皿は複雑だ。最も古い歴史を持つ「全日本健康自然食品協会(全健協)」、大手食品メーカーが集う「健康と食品懇話会(健食懇)」、医薬品メーカーで構成する「薬業健康食品研究会(薬健研)」の3団体が母胎となり、1989年に「機能性食品連絡会」を設け、制度化を支援した。

 もともと、従来あった社団法人日本栄養食品協会から健食懇が誕生して、1987年に「機能性食品勉強会」が立ち上がり、ここに他団体も参画して、連絡会という形となる。

 連絡会の会長代行はカルピス(健食懇)、副代表はクロレラ工業(全健協)、同じく副代表にサンスター技研という構図で、各団体の派閥均衡的な要素も持っていた。

 さらにこれに並行して、厚生労働省が音頭を取り、全健協、健食懇、薬健研に健康食品の公益法人の設立を指導。1979年に設立していた学術団体、日本健康食品研究協会を改変して、1985年に財団法人日本健康食品協会が発足する。

 ややこしいが、1980年代後半から90年にかけて業界側には健康食品をたばねる「日本健康食品協会」と、トクホの受け皿である「機能性食品連絡会」の2つが存在していた。しかも、それぞれ、団体とメンバーが重複しているのだ。

 各団体のメンバー構成や思惑、ヘゲモニーをめぐるさや当てが感じられよう。

 実態として、この時期の業界団体で最も力を持っていたのは、全健協だった。前身を含め、1970年代から活動してきた全健協は、自然食品と健康食品のメーカーと小売店の全国組織。オーナー経営者の集まりでもあり、実行力と構想力、さらに政治力があった。いまも日健栄協の会長を務める山東昭子参院議長との縁をつくったのも全健協のラインである。

 ともあれ、こうしたねじれた状態の解消とトクホの受け皿として、1992年に発足したのが財団法人日本健康・栄養食品協会だ。組織的には、前述の日本健康食品協会と日本栄養食品協会が合併して立ち上がった。さらに機能性食品連絡会も取り込んでおり、健食業界が大同団結して結成された形だ。

 人的にも新たに発足した日健栄協はトクホ発足の過程と深く関与していた。アカデミア側のオピニオンリーダーで検討会の委員を務めた福井忠孝氏が、日健栄協の初代理事長に就任する。もともと、日本健康食品協会の理事長で、その流れでトップの座に座る。続く二代目理事長には、同じくトクホの検討会の委員を務めた細谷憲政氏が就く。

 複数の業界団体を統合する財団法人が発足。さらに理事長には、栄養学の大家2人を迎える。会長には政治ポストとして、山東昭子参議院議員が座る。山東議員は当時の厚労族の首領、橋本龍太郎に近い関係だった。

 新制度「トクホ」の受け皿としての日健栄協は、産官学プラス政治のバックアップを得て、正に理想的な建て付けだった。

 ここで大団円となれば、健康食品業界は日健栄協で完全に一本化されただろう。


 しかし、現実はそういう形には進まない。

 肝心のトクホは、許可どころか、申請さえ出てこない始末で「しらけ鳥」が飛び交う低空飛行を続ける。

 さらに、業界側の申請の窓口となった日健栄協に対しても不満が昂じていく。(つづく)

 
楽天 通販売上高ランキングのデータ販売